早見あかり『昨日のこと』Quick Japan Vol.95

 過去の写真も織り交ぜながら、主に震災直後の3月17日、早見あかりの誕生日に京都で撮影された写真を中心に構成された40ページ。第一印象は優しい顔をしているなということ。京都での写真からは今とても穏やかな心境だということが感じ取れて、見ているこちらをホッとさせてくれる。ももクロを脱退することを決断し、最後が決まったからこその吹っ切れた感触が滲み出てる。川辺を走る彼女はアイドルという枠に縛られずに自由に進む。京都の風景に溶け込む静かな姿と、薄く今にも壊れそうな白い肌。透きとおった表情からは決意に裏付けられた迷いのない感情が真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
 正直なところ、髪を切った後のあかりんには違和感というほどではないにしても微妙な引っ掛かりを感じていた自分としては、この京都での一連の写真を見て、やっとすべてを受け入れて心の中に収まった。その些細な噛み合わなさは双方のすれ違いだったのかもしれないし、髪の短い早見あかりに慣れなかっただけかもしれないけど、写真を通してやっと二人のピントが合ったというか、真正面で向き合えたような気がする。今まで数えきれないくらい会っても、磁石の同じ極のように近付けば近付くほど気持ちはすれ違って反発しあってた感があった。だけど写真という生身で会わない瞬間に、やっと見つめ合えたと思う。それ単純に目を合わせるのが恥ずかしかっただけかもしれないけどね。そして、そんな気持ちになれたのはやはり新津保建秀の写真だからなのだと思う。写真を見るだけで、早見あかりの視線の先にあるカメラの優しさがすごく伝わってくるもの。正直悔しいよね。ホントいい写真だよ。京都駅で振り返る早見あかりの眼差しの優しさは、被写体を見つめる優しい視線への返事だろうし、つまるところ双方が深く信頼しあっているのだろう。
 握手などと違って、これは既に早見あかり(そして新津保建秀)からの片道のメッセージであって、関係というには程遠い、ただ僕は見て受け取るだけで何も向こうに伝えられないんだけど、もうそれでもいいような気持ちにさせる雰囲気がこれらの写真にはある。それはもう諦念でしかない。心を開いた者にだけ見せる顔がそこにあって、それはやはりちょっとした切なさを伴いながらも僕に静かな春を運んでくる。見ていると心がグッと沈んでいくような感じで、でもそこには温かみがあり、悲しさだけではないいろんな感情が湧き上がっては消えて、ひとつの確固とした気持ちが定まらない。それは嫌な気分ではなくて、このように心が波立つことで記憶が刻まれていく。ももクロを辞めることは、僕にとっては悲しいことだけれど、これでよかったんだなと思わせるものが写真から押し寄せるように伝わってくる。逃げ場はない。思い返しても、あまりよいファンではなかったと思う。あのときこうしていればよかったとか後悔もする。まあ、振り返ってもしょうがないよね。前を見なきゃ。これからどうなっていくのかわからないけど、今はこんな素晴らしい写真を残してくれたことがとてもうれしい。QJの写真はずっと見続けると思う。ありがとう。言っとくけど、撮影したときはまだ"ももクロ"の早見あかりだからね。